お腹がすいた私が寿司を食べようかハンバーガーにしようかと思案したとする。寿司を選ぶ自由がある。回転寿司に入るのか目の前でにぎってくれる「トロ、ふたつ」と注文する寿司屋さんに入るのかそれは私の自由。

▼キリスト者カントは言う。いやキリスト者ニュートンも言うだろう。リンゴが枝から落ちるのはリンゴの意志で落ちたのではない、重力だと。だが私は寿司を選ぶ自由を行使していると思っているが、実際は自分の好みによって一番合った味をみつけようとしているだけなのだ。好みを満たそうとするのは悪でも罪でもないが・・・。

▼寿司を選ぶ、のは自由を行使しているのではない。自分以外のもの、食欲とその時の好み味によったにしかにすぎない。その選択にかけられている力(リンゴの場合は重力)によっただけだ。好みであって自分の人格は何もしていない。自由に生きるとは私という人格が目的に関与しているときである。ハーバード大学教授サンデル氏は言う。寿司を食べている時ではない。私のたましい(人格)以外の条件によっているのは自由ではないと。

▼自由とは私が生きるために選択する自由がある自分に気づくときにだけ味わえる。その歩みが自由である。

著者紹介

畠田 秀生
畠田 秀生
聖書と日本フォーラム会長。聖書日本キリスト教会・登茂山の家の教会牧師。三重県志摩市在住。